山田の歴史

 

山田の歴史

山田町は陸中海岸のほぼ中央に位置し、山田湾と船越湾の二つの湾を擁しています。 その沖合では親潮と黒潮が交差し、世界でも有数の漁場です。しかしながらこの地は有史以来幾度も大きな津波が押し寄せ、その度に甚大な被害を受け大きな痛手を負いながらも人びとは何度も再建してきた歴史があります。 この地は中世には安倍氏や奥州藤原氏の勢力下にあり、鎌倉時代から室町時代には閉伊氏や福士氏の一族の管理となりました。1599年(慶長4年)南部氏が領内を統一し盛岡藩の成立後は大槌代官所の管轄となりました。徳川幕府の前期、1643年(寛永20年)オランダ船ブレスケンス号が閉伊郡山田浦に入港。このとき山田の人びとは水、食料、野菜などを補給するため入港した船員を温かくもてなしました。 日本の学校歴史教育で学ぶ日蘭交流史は、「1609年(慶長14年)オランダ東インド会社船による平戸への到着。その後平戸オランダ商館を通じ日蘭貿易が開始されたこと。

そして、1641年(寛永18年)鎖国体制下で長崎出島でのみ貿易が許されたこと」などに関してのみです。 そして多くの日本人は、平戸や長崎出島とほぼ同時期に当時閉伊郡山田浦、現山田町山田湾にブレンスケンス号と称すオランダ船が入港しその船員と地元の人びととの間に温かい交流の歴史があった史実はあまり知られていません。

私たちは、徳川鎖国時代にあったもうひとつの日蘭交流史が当時南部藩閉伊郡山田に在ったことを広く日本中の人びとに知って欲しく思います。

ブレスケンス号とオランダ島

寛永20年(1643年)610日一隻のオランダ船が山田湾に水や食料を補給するために入港したこと。その後ブレスケンス号事件へと発展すること。そして今日では、オランダのザイスト市と山田町は友好都市の締結を行いお互いの町を行き来する交流が続いていることなどが鯨と海の科学館で紹介されていましたが、残念ながら、現在ホームページが閉鎖中です。 過去のデータから、ここでの紹介文を掲載させていただきます。

  

山田湾の真中に小さな島が2つ並んで浮かんでいます。大きいほうが大島、小さいほうが小島です。その大きいほうの島を別名オランダ島といいます。オランダ島の名の由来は、寛永20(1643)年6月10日に、1隻のオランダ船・ブレスケンス号が山田湾に水や食料を補給するために入港してきました。この時に山田の人たちは、オランダの乗組員たちと酒をくみかわし、品物交換をするなど歓迎をした故事によっています。
 当時日本は鎖国時代で外国人の入港を認めていませんでした。ところが、山田の人たちは鎖国という認識をもっていなかったようです。それから1カ月半後の7月28日、このブレスケンス号はまた山田湾に入港するのですが、この時オランダの乗組員たちは南部藩の役人につかまってしまいます。役人たちは、きれいに着飾った若い女性たちを小島に上陸させ、島の近くに係留中のブレスケンス号から乗組員たちを誘い出し、一緒に宴会を始めます。乗組員たちは、役人のわなにはまりとらえられてしまいました。とらえられたオランダ人は大槌代官所へ連行され、その後江戸へ送られました。乗組員たちは何度も幕府の取り調べを受けますが、9カ月後長崎からオランダへ帰っていきます。この事件は、ブレスケンス号事件として今も語りつがれています。通称オランダ島と言われるゆえんは、このような事件が背景にありました。
平成12年、オランダのザイスト市と山田町は友好都市の締結を行い、現在お互いの町を行き来し交流が続いています。約360年前のできごとが、お互いの友好関係を築く礎(いしずえ)になりました。

このように、オランダと山田町は、400年近くになる交流の歴史があるのです。 友好都市であるザイストには、中学生、高校生たちが訪問して現地生徒達との交流を図っています。